「意味上の純粋性」と「コミュニケーション上の通用性」

単語選び、言葉選びにおいて、「意味上の純粋性」と、「コミュニケーション上の通用性」のどちらを重視するか。

プログラマな世界においては、「ハッカー」という単語なんかが、その話しのいい例かな。

プログラミングを尊ぶ者にとって「ハッカー」とは憧れの存在であり、目指すところでしょう。だけど、一般人にとって「ハッカー」とは、クラッカーを意味する、悪者にほかならないでしょう。つまるところ「ハッカー」という単語が束縛する対称が違うんですね。しかも対極的な意味合いで。

そんななか、仮に一般人に、「ハッカーなんて、いなくなればいいのに。」なんて意見を言われたら、プログラミングを尊ぶ私は、何と返せばよいのか。

ここで、「いや、『ハッカー』っていうのは、本当は凄いプログラミング能力を持った人でね〜...」などと「ハッカー意味論」切り出すか。それも悪くないかな。思慮ある友人であれば、きっと理解してくれるでしょう。

だけど、その相手が、会社のワンマン上司であったら? 弱気な私なら「そうですよね〜。」としか言えないかな。つまるところ最終的には、「コミュニケーション上の通用性」を重視しているということか。

でも、世の中には、そういったことをお構いなしに、「ハッカー意味論」を切り出すような、「意味上の純粋性」重視な方々もいたりしますね。

どちらが良い/悪いかなんて、私なんかが軽々しく言えません。ただ「コミュニケーション上の通用性」を重視する私一個人の意見として、「意味上の純粋性」を重視する方に対して、「うわ、痛いなぁ。」というある種、卑下するような思いと、「自分の信念を貫いてるなぁ。」というある種、尊敬するような思いが入りまじっていて、その心情は複雑です。